
69.家庭用防犯自動点灯ライト;センサーライト
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これは、便利だ。玄関に付けておけば、夜、帰宅して鍵穴が分からないということもないし、足元も明るい。裏口など道路から見えにくい場所につけておけば、泥棒が近づくと照らし出してくれる。居候宅などはあちこちに付けてある。中国やイラン、東南アジアなどからの不法入国者25万人がほったらかしでたむろしている治安も何もないこの国では必需品だ。最近は、小人閑居して不善を成すと、孔子が、2500年も前に喝破した通りに、新聞紙上を犯罪でにぎわせている無職者も危ない。
考えなくても分かるが成人し、親に食べさせてもらうわけでもなく、求職する意志もなく、無職でブラブラ遊んでいたら、犯罪以外に収入を得る道がないのは自明の理ではないか。まっとうな人間は、警察庁と政府の無策で治安を失ったこの国では自衛する以外に安全を確保する道がない。
センサーライトとはこういうもの。ただ、建物の外に、100Vコンセントがないと、取り付けは困難だ。
写真
この写真のWebのサイトでは、定価に近いが、秋葉原や、DoItYourselfの店などに行けば、1電球もので、1500円程度に値下がりしている。
下のような2電球ものがお薦めだ。1灯が切れても、もう1灯が有るから、電球を切らしていても安心だ。マーフィの法則で、電灯が切れた時に限ってコソ泥がやってくる。2灯ものだと、2490円程度だろう。
2電球物の写真
・防滴型と書いてある物にすること。100V白熱電球(普通の電球)が剥き出しに
なっているものもあり、安いが、数百度になっている電球に雨粒が1滴当たれば、ビシッ
と割れることだろう。
・昼間は、センサーで明るいことが分かるので人が近づいてもつかない。
昼間でも人の接近を感知して点けたければ点くようにする設定はある(メーカによるかもしれない。要確認)
・遍く、物質は熱(赤外線)を出している。人間の体温程度以上の熱を感知して点灯する。
犬や猫が通っても点く。センサーはかなりいい加減だからね。
尚、熱を出さない絶対零度は存在しない。不確定性原理があるから。
家の前の道路を車が通るとボンネットの熱を感知して点灯する。
・電球は、ハロゲン電球なので、小さくて明るくて高価だ。700円くらいする。
・この種のセンサーを使うものは点灯していない時でも、センサーが電気を少(0.5W)しだが食っている。
室内用の5Wナツメ球を使う小さなセンサーライトもあるが、あれも常夜灯のように地球に優しくないものよりも便利だが、屋外用の本格的なライトと同じ位の値段がする上にセンサーがあまり上等ではないので、動作は不安定。一般に、屋外用も含めてこの種のセンサーは安物なので、曇り程度の明るさだと、点灯するモードになる。屋外用は明るさの閾値を設定するボリュームもあるが、あまり役には立たない。
この種のライトには、赤外線(温度)センサーと光センサーのニ種入っていて、光センサーが光を感知している時は、温度センサーが感知しても電灯を点けないようになっている。光センサーが安物だから快晴の野原などのように物凄く明るくないと、光を感知しない。だから曇りになると、もう点灯モードになる。そこに熱源が近づけば夏の6時、冬の4時頃には晴れの日でも点灯する。まあ、これは電気の無駄使い程度の被害だから許そう。
それよりも、室内用センサーライトでは、真っ暗なのに人が2m程度に近づいても点く時もあれば点かない時もあるというのが困る。これは熱センサーがいい加減なのだ。
ダイソーやキャンドウのような100円ショップでは、熱ではなく明るさだけを検知して夜になると自動点灯、朝になると自動消灯する常夜灯が置いてあるが、上で述べたように常夜灯が要るような室内の廊下では快晴の太陽ギラギラという環境ではないので、自動点灯しっぱなし、つまり24時間つきっぱなしで何の役にも立たない。
70.JRを例に安全を考える;ハインリッヒの法則
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ハインリッヒの法則とは、事故発生率の比が、小事故:中事故:大事故=300:29:1となっているというものである。29はほぼ30だから、これは小さい事故が10件起きたら、中くらいの事故が1件起き、中くらいの事故が30件おきたら、大事故が1件起きるという統計的な法則である。
だから、小さい事故が起きたら、それ以上は起きないように早急に対策を練らなければならない。小さい事故がいくつも立て続けに起きると言うことは安全管理や、業務環境に問題があるということなのである。危機管理デーモンが、ちょっと危ないよとシグナルを送ってくれているのだ。
小さい事故の発生が止まらないということは、その職場は綱紀乱れ、人心が荒れているということを示している。だから、更に事故がおきる。その原因を根から断たない以上、小事故が起き続け、それは中事故につながる。それに対してなんらの処置を施すことなく放置すれば大事故につながる。
ハインリッヒの法則は単なる統計法則でなく事故のおきる組織学的要因を明らかにしているのだ。
このページには、色々のJRの小事故とも言える体験を載せている。実は、それはほんの一部にすぎない。本当の所、JRには乗る度に不愉快な思いをしているのだ。ここに書いている事などは氷山の一角にすぎない。JR全体の綱紀の乱れと、社長・役員から末端管理者に至るまでそれを是正しようともしない無責任体制がそういう小事故を起こし続けているのだ。
それが、昨今、新聞を賑わせている中事故群の原因になっていることをJRの間抜けな役員どもは気が付いていないのだろう。高速道路を300mもバックで逆走したり、何人もの運転手が、無免許で高速バスを走らせたり、新幹線の運転中、運転をほったらかして車中から景色をケータイで撮って恋人にか不倫相手にかしらないが、送ったりと、やりたい放題の無軌道ぶりだ。「深く反省している」とは笑わせるではないか。その程度の善悪の判断は小学生でもできる。反省だけなら猿でもできるというが、反省以前の一般倫理、職業倫理の問題として、前もって、その善悪を考えるだけの知能もないのには呆れざるをえない。これで1年もしたら、JRは又、口を拭ってそういう低脳の猿を運転台に乗せて新幹線を運転させ数千人の命を危険にさらすのだろうか。数千人の命を自己の一時の欲望の為に危険に曝したのだから、当然、懲戒解雇だと居候は思うのだが。写真を撮ったくらい大した事ではないではないか、CTCも有る事だしと思ったとしたら、職業倫理がもうJRには無いと言っていい。日テレは、くだらない俗悪番組の視聴率を操作したという些細な社会的に何の問題もないような(俗悪な人間には大問題かな)事でも当のディレクタを懲戒解雇した。役員も降格している。JRでは、こんな話しは聞いたことがない。もっとも番組制作費1000万円の流用という問題はあるが、高が金の問題にすぎない。倫理とは比べ物にならない。
綱紀が如何に乱れているかは、車掌が車中で次の駅を告げる時、駅名の間違いと言いなおし
が日常茶飯事に起きていることをみれば明らかである。こういう何でも無いように見える小さな事故をほったらかしにしているから、JRは事故が絶えないのだ。明らかにJRは国鉄時代よりひどくなっている。車掌が駅名をマイクに向かって告げる時、通常の職業倫理をもっていれば、一度、心のなかで「次はxx」とつぶやくはずだ。運転手の指差確認と同じことだ。今でも多少は残っている職業倫理感を持っているとみられる運転手は「シュッパツシンコウ」のような言葉を大きな声で口に出している。そうすれば、間違いに気づくはずである。それをしないで、何も考えず反射的に駅名を口に出す物だから、反対方向の通りすぎてきた駅名を告げることになる。
間違えてはお客に申し訳ない。そう思う心が職業倫理である。JRの職員には「お客様」という概念がないので、こんなことは考えない。国鉄時代は、上司もうるさかったので、こういうことはしっかりしていたが、今は、上司がそもそもこういういい加減な下ッパが訓練もせずに成りあがった者なので何も言わない。
これらの中事故が絶えるまで、新幹線には乗らない方が無難というものだ。もう暫くしたら、ハインリッヒの法則に従って、新幹線か、幹線従来線が大事故を起こすだろう。そこにあなたが乗り合わせれば、命が危ない。居候は、だから、JRを乗らなくても済む路線は多少の不便があっても絶対にJRには乗っていない。新幹線から飛行機に変えることも視程にある。既に家族はそうしている。新幹線より金属が空を飛んでいるとはいえ飛行機の方が遥かに安全だ。
71.美味しく縮まない牡蠣の食べ方;カキフライや鍋には必ず加熱用を使おう
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思われがちな大きな誤りは、生食用は新鮮で、加熱用は日が経って新鮮でないというものである。
一般によくある生食用と加熱用の違いの説明は、
・生食用は獲れてから、2、3日紫外線などで殺菌した水の中で育て滅菌する
・中には、上記で殺菌して、更に加熱までしているものまである
・加熱用は、獲ったまま。殺菌していない。ようするにあさりやハマグリと同じ
というものである。
生食用の処理は、牡蠣本来の味を無くし、非常にまずくする。
だから、生で食べるのでなければ、加熱用の牡蠣の方が上等なのだ。
上の生食用牡蠣の説明は、多分正しいのだろうが、広島の牡蠣では、そんなやり方はしていないと昔聞いたことがある。
広島市は無菌牡蠣を世界で初めて?養殖することに成功して、生牡蠣を安全に食べられるようにした。
その方法は、
・牡蠣を育てる環境を制限する
−生食用は、沖で育てる。
−加熱用は、沿岸で育てる
だそうだ。
沿岸は、プランクトンなど栄養が多いから、牡蠣は大きく、美味しく育つ。白菜と一緒に鍋にしても縮まない。大きなままだ。
一方、沖で育った牡蠣は栄養不足で、小ぶりで、まずい。加熱すると何分の一にも小さく縮んで情けないことになる。
冒頭の広島以外?の方法なら、同じ牡蠣の処理法が違うだけだから、味は別として小さいとか栄養不足とかはなく、従って、煮ても縮まないと思える。実際のところは、いろいろな事情があろうからわからない。
とにかく、生で食べるつもりが無いのなら、加熱用の方が美味しく、大きく、縮まず、安いと良いことだらけだ。
広島うまいぞ市
72.IP電話の勧め その2 「050-」のメリット
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以下は、BBフォンでの説明になる。他のIP電話プロバイダでも大部分は同じになるだろうが、プロバイダ独自サービスもあるだろう。どこが同じでどこが違うかは居候にも分からない。
IP電話が、2003.12.24、つまりこのクリスマスイブから、050-でも使えるようになる。つまり、050-1234-5678のようになる。
YahooBB!のIP電話は、BBフォンというが、詳細は、
IP電話の薦め;国内、米国どこでも3分、7円50銭
を読んでもらうとして、IP電話を使っている家庭では、上記の日時から、携帯電話が090-で始まるように、050-で始まる別の電話番号(IP電話番号)がNTT電話番号以外に追加される。番号変更ではない。もう一つ番号が追加されるのだ。今までの番号はそのまま使える。だから、新しいことは覚えたくも聞きたくも無い場合、気にすることはない。050ーで始まる番号をもらっても使わなければいいだけで、一切、これまでと変わらない(番号通知だけは要注意。下記3)。
すぐ分かるように、自宅のIP電話から外にかけるときは、050など関係ない。主として(主でない部分は、番号通知が有効になる事。下記3.)かかってくる電話が問題なのだ。つまり自分に掛けてくる人が電話代が安くてすむようになる。これが最大のメリットだ。
追加される番号は、050-xxxx-yyyyだ。yyyyはこれまでのNTTの自宅番号。市外局番の代わりに050、市内局番の代わりにxxxxとなる。xxxxは自分の加入しているIP電話サービスプロバイダから郵便などで通知される。BBフォンなら、12月上旬辺りで通知が郵送されてくる。
では、この追加された電話番号で良いことはなにか?
大雑把にいうと、
1.IP電話に加入していない他の家から掛けてくる電話もIP電話料金になる。
今までIP電話でない親戚、友人が我が家に長距離電話を掛けてくると、一々掛けなおしてやっていた。それが、050で始まる追加の電話番号の方を使えば、相手の電話がIP電話でなくてもIP電話経由となり、日本全国どこからでも3分、10.5円になる。こちらからかける場合は、3分、7.5円だから少しだけ高いけれど、これまでの長距離電話に比べたら圧倒的に安くなる。
だから、居候は、これからは、050-xxxx-yyyyに掛けてね、高くても良ければ、あるいは、050-が回線事故でかからない時は、今まで通りの番号でかけてね、と親戚、友人にメールを打ちまくっている。
2.引っ越しても電話番号が変わらない。ただし、BBフォンに届け出は必要。
050-ではじまる番号はBBフォンが管理しているから、引っ越した場合、NTTの番号は変わっても、IP電話番号は変わらないサービスだ。これは便利だ。引っ越した当初って、困るでしょ。それがない。その代わり、yyyyがNTT電話と一致しなくなって、覚えるのにやや面倒だ。
以下は推測だ。NTT電話に頼らなくてもBBフォンはIP電話をつなげられるが、あなたが一体、どこに引っ越したかを知る必要はあり、それにはNTT電話番号が最も信頼できる情報だからだ。
だから、引っ越したら、BBフォンに新しいNTT電話番号を届けなければ、050番号は使えないと思う。BBフォンは、NTTの電話番号と、050のIP電話番号を対応させてコンピュータに記憶させているだろうから、届け出ないと、古いNTT番号に相当する場所にかかり、その番号はもう使われておりませんだ。まさかNTT東西日本が、BBフォンに届けてくれるなんてことは、まず期待できないからね。あと100年も経てばそうなるかもしれないが。
3.番号通知(ナンバーディスプレイ)が可能になる。
番号通知など非通知にしている人には関係ない話である。携帯にも通知されるようになるので、注意が必要だ。050-xxxx-yyyyが通知される。
である。
公衆電話から050-IP電話への場合は、全国一律19秒10円となるので、市内や、近隣都市の場合、かえって高くつく。大雑把に言って、3分90円以上の長距離以外は使わないほうがいい。
携帯からIP電話は、来年(2004)対応のようだ。携帯電話は、変なメチャ高い料金体系だから、しかも距離に余り依存しないコースもあるから、料金的には、あまり期待できない。
73.デジタルテレビって何がいいの?
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これは答えるのが難しい。居候などのテレビ嫌いには、何も良いことはない。
客観的に言えば、
放送システムが変わるだけのことである。番組が変わるわけではないので、一億一千万(一千万位はまともな人間もいようから)総白痴化を狙うくだらない俗悪番組を民放が垂れ流す事態には何にも変化はない。
つまり、テレビという機械の中身が変わるだけで、そんなことには一般家庭は関わりがない。レコード盤が、CDに変わっただけ。音楽という中身には関係ないのと同じだ。CDがMDに変わっただけと同じことと思ってもいい。
若干良いことがあるとすれば、いわゆるハイビジョンにしやすいので、そうなる。つまり絵がきれいに鮮明になる。30万画素のデジカメが100万画素のデジカメになるのと同じだ。実際にも、今のテレビは30万画素くらいだし、ハイビジョンは100万画素くらいだ。
双方向とかいって、例えば、クイズ番組の答えを家庭でテレビで見ながら答えるようなこともできるが、こんなものは既に現行テレビでも電話回線を使ってやっている。まるで人気がないので、その為の会社を作っても、もうつぶれたのじゃないかな。
あと、デジタル方式は、雑音に強くできるから、携帯電話のような移動機器で受信できるようになる。
こちらは、それなりに新しい市場と用途が可能になるだろう。今の携帯テレビは見るに耐えないでしょ。あれが綺麗な画面になるのだ。
お茶ブレイク
新聞にデジタルテレビの解説が載っていたが、天気予報などが文字で見られる事が、特徴だと書いてあった。これ、書いた記者も、意味が分かっていないのだろうね。今だって、文字が出ているじゃないか。テレビに文字は良く映っている。何が違うんだという疑問を普通の人は持つだろう。技術者というものにはアホが多いから、こういう表現を平気で使うし、それを文科系の記者に話したのだろう。彼は、???なのだが、それを聞くと、軽蔑のまなざしを受けそうで恐い。というわけで、意味不明の記事が新聞に垂れ流しになるという寸法だ。
文字放送というものもラジオであった。こういう時に使う「文字」は、「画像」に対する言葉なのだ。今、テレビで見ている文字は、あれは文字ではなく「画像」つまり「絵」なのだ。どういうことかというと、あなたがアラビア語の本を見ているみたいなものだ。読んでいるのではない。読めないでしょ。でも、見ることはできるし、写すこともできる。それはあなたの大脳が、アラビア語の「字」を「画像」として扱っているのだ。アラビア語が分かる人は、それを「文字」として扱うことができる。つまり読めて意味が理解できる。そういうことだね。
少し、専門的なことを言えば、画像としての文字は、点の集合だ。デジカメの画素。デジカメでも文字を撮ることができるが、デジカメは、文字が分かっているわけではない。単なる点として写しているだけだ。あなたが、もし、英語を知らなければ、「R」を記憶しようとしたら、この文字の形を記憶する必要がある。線で記憶してもいいし、デジカメのように点(画素)の集合として記憶してもいい。これが文字を「画像」として扱うということなのだ。でも英語を知っている人は、そんなことはしない「アール」と記憶しておけばいい。後で、どんな字だったかどこかに写そうとした場合、「アール」は「R」ということを知っているので、再現できる。「r」と同じことだとも分かる。しかし、画像として記憶している人には、R=rなんてわからない。それどころか、R(全角)とR(半角)だってちがう画像だということになる。
まあ、ざっとこんなことだ。「字」といっているのは、専門的には「コード」のことなのだ。字を「画像」ではなく、「コード」として扱うというのが専門的表現なのだね。
もうすこし詳しいことがしりたければ、
アンドロイドXのコンピュータ講座
2011年には現行アナログテレビ放送は廃止になるから、今、アナログテレビを買い換えようとしている人は、よく考えよう。まだ8年使えるから、まあ、数万円程度のものなら買ってもいいが、十万円以上もする諸機能満載の大型アナログテレビは止めたほうがいい。液晶やら、プラズマの大型平面テレビは30万前後するが、アナログが大半だから、後、8年の命だ。もっとも、多分、液晶や、プラズマの寿命もその位だから、まあ、いいか。
アナログテレビでデジタル放送を受けることもできる。普通のUHFアンテナがいるが、もう付いていれば簡単だ。変換機をアンテナとテレビの間にいれるだけだ。この変換機、デジタルチューナという名前で売っている。6万円くらい。
デジタルテレビは、まだまだ売れていないだけに50万、60万と、割高だから、これも馬鹿らしい。
名案はないが、最良の案は、この際、百害あって、一利ないテレビは捨てることだね。NHKを必要とする人は別だが。
74.冬の富士
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横浜郊外、と言っても横浜市内ではあるが、から見た冬の富士山。
2003.12.14(日)13:00
75.韓国テレビドラマ「冬のソナタ」の薦め
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「冬のソナタ」NHK HP
Winter Sonata (ヒロイン/ヒーロ/舞台)
Winter Sonata(英語版)
Winter Sonata (中国版)
といっても、一昨日2003.12.26、NHK BS2での再放送が終わってしまったので、友人にビデオを借りるか、レンタルビデオ屋にいくか、アマゾンで買うかしかないが。
ああ言う真っ直ぐな純愛物を日本の馬鹿マスコミが作れなくなってから久しい。
恋のあの出遭いの、心の震える衝撃を経験したものなら、泣けること請け合いである。おまけにHappy endだから、途中の紆余曲折も安心してみていられる。水戸黄門のようなものだ。
こんなのは居候にとっては、「グリーン・レクイエム」以来だな。
グリーン・レクイエム主題歌さわり;mp3 400KB
冬のソナタ主題歌イントロ&クライマックス;フェードイン/フェードアウト処理,96kbps,ジョイントステレオ;mp3 455KB
雰囲気がよく似ていると思うけど。
そもそもあの手の、清楚で可憐な美女、知的な美男のタレントが今の日本にはいないので、作るにも作れない。
素直な芸術が行くところまで行くと、創造的でない人達は、何でもいいから他人と違うことをしないと創造的ではないように思えてしまうらしい。優れたことはそうそう考えられるわけではない。で、下らんことで人と違うことをすることになる。ミレーやベートーベンではなく、ピカソやシェーンベルクのようなグロテスクなものになる。日本のテレビ界は、そのグロテスクな段階にいるようだ。
今の日本は、そういうグロテスクな社会に成長し切ってしまったらしい。あとは、ローマ帝国のように、いやソドムとゴモラのように腐敗臭を撒き散らしながら滅びていくしかないのだろう。
もっとも、この種の「君の名は」的恋愛詩には、ストーカのようにシツコく、猜疑心が強く、嫉妬深い男と、一見知的だが、極めて重要な局面で大局的判断ができずに道を誤る馬鹿というコンビと彼等に翻弄され続ける女が必要で、そうでなければ20回も続かないので仕方ないのだが、見ていても馬鹿らしくなる。いや、涙しながらではあるがね。
「小さきを忍ばざれば即ち大謀を乱る」の対極を行く人物と馬鹿な話しばかりで出来あがっているドラマでもある。
ちなみにこの物語を醜女と醜男でやってごらん、誰も見ないに決まっている。キャストで見せている番組だ。だから、ノべライズされても読まない方が良いと思うな。
居候なども、チェ・ジウ(崔 志宇/智友? Choi Ji-Woo)のあのチョン・ユジン(張 勇俊)で無かったら見なかったな。偶然、最終回を見て、それに惹かれてビデオを見たのだから。
緑の黒髪に紅を指さない唇、白皙の可憐な容姿、眉を顰めたあの理知的な表情が堪えられない。
スタイルも良い。花子のユジンとかね、ヒロミのチュンサンでは見る気にはなれない。(以上5枚は、NHK BS2 映像をデジカメで撮影)
お茶ブレイク
緑の黒髪
緑の黒髪って、形容矛盾に思えるかもしれないが、そうではない。「緑」の原義は「New」だからだ。新生児は「みどりご」だ。
緑の黒髪は、だから「生えたてのような瑞々しい黒髪」ということだ。
5月の木々の「新しく」芽生えた葉の色を、だから「緑」というようになった。それで、緑が色の名前になってしまったのだ。「新緑」って、本当はおかしいのだけどね。
しかし、こんな分析をせず、ボーとして見ている分には、なにか人間の本性に迫っているようで真に面白い。
何よりも見て欲しいのは、映像に何の違和感もないことだ。そこに映し出される、都市、家庭、人物、ファッションを見ていても、ほとんど違和感がない。文化の違いはあっても、文明度の違いはないのだ。
音楽も素晴らしい。心に染み入ってくるようだ。思わず目を瞑り頭を下げて聴き入ってしまう。
韓国は、文化は歴史的に日本の兄貴分だったが、文明においても、もう完全に日本と対等になったのではないだろうか。IT技術でも、既に日本はLSI、液晶で韓国に追い詰められつつある。人口の絶対値が少ない分だけ韓国は不利だろうが、労働集約ではなく知識集約的産業では、爛熟し、堕落しつつある日本はますます追い詰められて行くに違いない。米国の家電が日本によって壊滅したように、日本の半導体産業は、韓国によって壊滅させられるかもしれない。歴史は繰り返すは真理なのだ。しかし、まあ、米国の自動車産業が日本を見習って再生したという歴史もある。
今の日本の十代、二十代の若者に是非見せたいドラマだ。韓国の若者は、日本の現代文明を取り入れるのに忙しく、かってのそして今の米国が日本の憧れであったように、日本は彼らの憧れだというが、日本から見ても、韓国の文化と文明が素晴らしいことをこれから日本を背負う若者達に是非、見ておいてもらいたいものだ。
そして、道徳的には、儒教の影響もあろうが、日本の民放テレビ界が完全に忘れてしまったものを色濃く残している。だから、子供と見ていても実に安心だ。日本では既にドラマの上でさえ、倫理はなくなっている。間抜けなプロデューサや、ディレクタどもがテレビが公器であることを忘れ、自分達の爛れ乱れた生活や倫理観をそのままに映像化しているからだ。
ユジンとチュウンサンが実は異母兄妹ではないのではないかと教授が気付く場面がある。二人が同級生だからだ。しかも誕生日が2ヶ月しか違っていないからだ。日本のテレビ界では、この推理は成り立たない。一人の男が同時にでさえ二人の女に子供を産ませる事は可能だからだ。しかし、韓国の社会では一般的にそれは無い、という前提があるのだろう。つまりそんなに不道徳な男は居ないという前提が制作側にも、見る側にもあるからこの推理が成り立つのだ。
無犯罪の人間社会など、勿論、事実としては存在しない。韓国にも犯罪はある。しかし、犯罪が犯罪として抑止されない、中学生の万匹が日常的になっているばかりか、それを応援する犯罪者予備軍の連中がどうどうと書店側を非難するようなことがまかり通る日本と比較すれば(川崎の事件を思い起こそう)、そのような抑止力が働いている社会とは、なんと素晴らしい社会ではないか。
もともと、日本人は、朝鮮民族、漢民族、女真族などの大陸民族と、曙関や小錦関にみるような風貌のミクロネシアを始めとする太平洋に浮かぶ小島からやってきた海洋民族の混血なのだから、「冬のソナタ」の出演者を見ていても、ほとんど少し前のまともな頃の日本人のドラマを見ているようなものだ。ハングルや固有名詞が出てこなければ、暫く韓国ドラマとは気がつかない。
任那に日本府があったことからも、我々の祖先の一つが朝鮮半島にあることは分かるだろう。日本府とは、朝鮮半島から日本に出かけてくる人々の拠点だったのだろう。あの頃の、ほんの大和地方を治めているにすぎない、国の体を成していない弱小日本(という名もない頃だが)が朝鮮半島に遠征する為の拠点などというのは妄想だからね。それに、桓武帝の母親は朝鮮から来た貴族の子女だ。
日本と韓国は、帝国主義の歴史の中で不幸な関係があったが、こういう強制されないニーズに基づく文化交流が盛んになって欲しいものである。
お茶ブレイク
ソナタ
冬のソナタは、そのままなら、Winter Sonataでいいのだが、Winter Love Songなどとも訳されている。中国語では「冬季恋歌」と訳されている。
が、「ソナタ」には「恋歌」などという意味はこれっぽっちもない。まあ、語感が良いから使ったのだろう。
詳しいことは百科事典か楽典を見てもらうとして、ソナタとは音楽の形式の一つなのだ。交響曲の第一楽章はソナタ形式だ。
提示部 - 展開部 - 再現部 という形式だ。
提示部というのは、テーマを提示する部分。展開部は、そのテーマをさまざまに展開していく。再現部というのは、提示部の再現の事だ。そして、音楽はここで解決される。
なかなか意味深長なタイトルだ。ラ・ロンドでも、フーガでも良かったかもしれない。恋歌なんて単純なものではないね。
粗筋;非常に単純だ。ただ、少し推理小説的要素があるから、それを楽しみたい人は、ビデオを見るまでは以下は読まない方が良い。
読む場合、下の線のところで、クリックしたまま、下にマウスを移動させれば、色が反転して、字が明瞭に出てくる。反転がうまくできなければ、「Ctrl+A」で「全て選択」する。
超粗筋;
出会い→死に別れ→再会→運命的別れ→運命の誤りで再会→新運命で別れ→結ばれる
死に別れたのになんで再会できるの?
運命的な別れって?
新運命って?
が知りたい方は下に書いてある;
ある高校に男の転校生(役名;カン・ジュンサン/芸名;ペ・ヨンジュン)がやってきた。18歳。女生徒(チョン・ユジン/チェ・ジウ)が彼と恋に落ちる。彼女の初恋だ。しかし、転校生はクリスマスの夜、彼女とのデートに向かう途中、交通事故で死んでしまう。彼女は降りしきる雪の中、傘もささずに、来ぬ彼を人通りが無くなる深夜まで繁華街の片隅で待ち続ける。翌日、学校に行き、彼の死を知る。彼女は動転して教室を飛び出す。そして、彼を待たずに帰ってきてしまった自分を責める。でも、雪の中を深夜まで待っていたのだよ。人を待つのは15分までと決めている居候には驚異だな。この純真さに涙。
それから十年、彼女は幼なじみ(キム・サンヒョク/パク・ヨンハ)と婚約していた。その前にあの恋人に酷似した男が実業家のクライアントとして現れた。しかし、彼は記憶喪失で、自分の過去を知らない。正確には記憶喪失だとも気がついていない。精神分析医に偽の記憶を埋め込まれているからだ。彼女は、一目彼を見て呆然とする。そして彼に激しく心引かれていく。もともと幼なじみは、単なる幼なじみで、彼女は、彼には恋心を抱いていないまま彼の求愛に応えていたのだ。
彼は、建築家としての彼女の重要顧客として一緒に仕事することになる。最初の出遭いで動転し涙を見せた彼女に好意をもった彼は、彼女がこの仕事を担当することを契約の条件にしたのだ。自然、一緒に居る時間が多い。これを知った幼なじみは猜疑心の塊となり、彼女を責め続ける。
幼なじみが余りに理不尽な猜疑心を剥き出しにして彼女を責めたてるので、耐えかねた彼女は躊躇いながらも結果として元恋人に酷似した男の優しさに走ってしまう。サウンド・オブ・サイレンスを彷彿とさせる。主題歌の物憂げなところもそっくりだ。もっとも、彼女は結婚式から逃げ出したわけじゃない。非常に素直な、致し方ないストーリでそうなっていく。彼女の心の底には元恋人に対する消えることのない熾き火が燻っており、それを理性で押さえていた物を、幼なじみの猜疑心と嫉妬心と身勝手な行動、元恋人酷似男の優しさの為に再度激しく燃え立たせてしまったのだ。
いくら元恋人とは別人でも、酷似している上に優しくては、理性はどうであれ、心が耐えられるわけがない。それは、別の場面で、彼女に
「チュンサン(元恋人)のことを忘れられたら楽になるのに、私が忘れたくても、この目がチュンサンの顔を覚えているの。この心がチュンサンの言ったことを覚えているの」
と言わせていることで描写はしている。まあ、これが恋だ。
とにかく、この婚約解消状態では、彼女は薄情者ということになり、友人、家族から激しい指弾を受ける。これも人情の襞を解しない人達ばかりで、訳の分からん事と身勝手な事を言って彼女を責めるわけだ。恋ってのは論理じゃないから、仕方のないものだよ。それに、彼女の行動は論理的に理解できる物語の筋になっている。居候なんかには、この連中の方が余程トンマで薄情に思えるね。ただ、こういう事にしないと10回で終わってしまうのでプロデュサーは困るのだ。
幼なじみは、居候の理解を越える事に、失恋の痛みに耐えかね、食も摂らず衰弱して入院してしまう。これもとっても馬鹿らしい。人間の断食など1月はもつ。水さえあればいいのだ。まだ、数日しかたってないではないか。おまけに点滴しているから、こんなことで命が危なくなっていた日には人類はとっくに滅びている。
取り巻きは、何とかしてやれと彼女を責め立てる。何とかするとは、縒りを戻してやれということだが、そんなことは、理性的にも心理的にも、今更、出きるわけが無い。そのつもりがなく見舞いに行けば却って問題がややこしいことになる。一度でも本物の恋をしたことがある人には、これがどんなに無理な注文か分かるはずだ。振った相手に温かくすれば却って相手を苦しめることになる。振った相手には冷淡にしていた方が良いのだ。彼女はそのようにしようとしている。が、そういう理性的な事を言っていては物語が20回ももたない。それで、シナリオライターは、馬鹿な事に、友人と称する連中に、「冷たい、会ってやれ」と彼女を責め立てさせるのだ。彼女はセオリー通り、それを拒む。
ところが、元恋人に酷似した男は、変に理解があって、もう貴方を選ぶ決心をしたのだからと渋る彼女を病院に行かせてしまう。で、案の定というか、筋立てとして、彼女は幼なじみの衰弱を見るに耐えかねて幼なじみの元に戻ってしまう。ここなど、この二人の行動は丸で理解できない。行かせる方も方だが、戻る方も方だ。滅茶苦茶に無理があるシナリオで、アホらしくて見てられない。ま、あと3カ月、番組をもたせないといけないので仕方ないか。
彼の行為は賢明ではないと、恐らく普遍的に言えるのだが、ただ、彼女が戻るのは、薄れて来たとはいえ、儒教倫理−−孔子だね。小さきを忍ばざれば、すなわち大謀を乱ると言ったのも孔子なのだが−−の影響下にある韓国の家族性、社会性の特殊事情があり、韓国人には理解できるかもしれない。あれだけ、家族、友人--居候の価値観ではあれは友人ではなく単なる仲間だ--に責めたてさせているのは、彼女が戻る論理性を確保する為のシナリオなのかもしれない。日本や欧米のように乱れた人間関係の文化から見て批判するのは難しい。
とにかく、これで話しは振り出しに戻る。幼なじみの元に戻っても彼女の心は晴れない。当然、元恋人酷似男への熾き火が胸中赤々と燃えているからだ。折角、戻った彼女に幼なじみはまたも猜疑心と嫉妬心の塊になり彼女を苦しめる。何なんだろうね、これは。十年来の恋人への想いを断ってまで戻ってきた女を、まだ続いているのだろう、怪しいと言って責めるかい?密会をするくらいなら彼女は何も戻らなければ良いだけだったのだと、何故、気がつかないのだろう?これではほとんど白痴ではないか。
さて、ところが、元恋人に似た彼は、今更なんのつもりか、彼女を取り戻そうとする。私を病院にやったのは貴方なのだと、彼女は彼を拒む。ま、当たり前だが、そうは言え、彼女の本心は彼が恋しくて仕方ないのだ。のだが、この状況では、戻るに戻れない。幼なじみとのデートの後、タクシーを走らせ彼のフラットの部屋の前まで行く。ドアのチャイムを鳴らす瞬間、思い留まる。そしてエレベータの中で、「私は何をやっているのだろう。ここに来てもしかたないのに」と、泣き崩れる。馬鹿らしくてしかたがないが、貰い泣き。
ところが、運命の悪戯か、元恋人酷似男は、実は元恋人そのものだとわかる。元恋人の母親と、彼の母親が同一人物だと発覚するからだ。彼女は世界的ピアニストだ。一度、振り出しに戻ってしまった状況を再度、同じ姿で進めるのは無理がある。もう一度、元恋人酷似男の元に走らせては、彼女は何のことはない単なる浮気女となり、視聴者は離れていくだろう。が、元恋人が現れるならまったく無理はない。本来、収まる鞘に収まることになるだけだからだ。第10回もこの程度の論理的必然性を持たして欲しかったな。あんな、無茶苦茶はない。
ところで、結局、この物語が20回ももつのは、この母親が悪人だからだ。彼女が、嘘を付き続けなければ、十年後の再会のところで結ばれて終わってしまっている。それはともかく、結局、彼女はバレるまで何度も嘘を付き続け、最後まで真実を明かさず、息子を苦しめ続ける。最悪の人物として描写されている。
で、幼なじみは逸早くそれを知るが、それを彼女にひた隠しにする。この辺りの卑劣なところも好きになれないんだな。それだけ彼女を愛しているのだという論理もあるが、男の居候から言わせれば、単に物質としての彼女が欲しいので執着しているだけなのだ。こそっと、「彼女を愛しているのではない。人の物になるのが嫌で執着していただけなのだ」とも言わせている。これは、彼女を忘れるための方便のような場面として言わせているが、まあ、男一般、例外もあろうが、の本音だな。
が、とにかく、自分が元恋人なのだと、元恋人酷似男も記憶は戻らないながら、様々な状況証拠から知ることとなる。しかし、幼なじみの卑劣なやり方もあって、彼が自分は元恋人だと彼女に名のっても彼女は、何故か不思議な事に信じない。まあ、すぐに信じては20回までもたない。
彼は傷心の身を引いて、米国に戻ることを決意し、彼女に高校時代の思い出の歌の入ったCDを贈る。そこに添付されたメッセージには、「元恋人のようにテープに吹き込んで送ることはできないが。。。」と書かれていた。高校時代、元恋人が死ぬ(んだと思われる)前に、彼女にクリスマスプレゼントとしてその曲とメッセージを自分で吹き込んだテープを郵送していたのだった。この事を知っているのは、元恋人と彼女しかいない。
彼女は、元恋人酷似男=元恋人は真実だったのだと悟る。これで彼女の心の中の二つの熾き火は一つに収束する。彼女は涙が流れ落ちて止まらない。不覚なことにこっちもそうだ。彼女は空港に駆け付ける。空港で彼を見つけることができたが、ホテルでの一夜の後(ここは儒教の国、潔癖な韓国だからね。文字通りの一夜だ。何の含意もない。服を着たまま寝せている演出に注意)、彼は寝ている彼女をおいて、不可解な理由で立ち去る。探しに出た彼女は、交通の激しい道路の向こう側に彼を見止め、車道に走り出、トラックに轢かれそうになる。それを助けようとして彼も車道に走り出る。彼女は助かったが、彼は頭を打ち、意識不明の重態に陥る。
彼女の何日にも渡る献身的看護の甲斐あって、まもなく彼は意識を戻し、そして記憶も取り戻す。こうして、彼女は恋人の元に自然に戻る。これには幼なじみではグの音もでない。廻りの、彼女の責め方も弱まる。しかし、これで、結ばれたら、12、3回で終わってしまう。
恋人は、実は私生児で父親を探していたのだった事まで思い出してしまう。高校時代の転校も父親を探すため母親の故郷に戻ったためだった。で、その父親が、彼女の父親と同一人物だと判明する。二人は兄妹なのだ。恋人は、それでも妹と二人だけの結婚式を持とうとする。教会での二人だけの結婚式の途中、幼なじみが駆け込んで来て、彼女をSound of Silence張りに連れ去る。不可解なことに兄は泣き叫ぶ彼女を助けようとせず、連れ去られるに任せる。後日、妹も真実を知る。二人は泣く泣く分かれる決心をする。そして、彼女は自分のデザインになる家の模型を彼に思い出として渡す。
その隙に乗じて、幼なじみが、二度ほど婚約解消されているも同然なのだが、またも彼女に野心を燃やす。よくここまでできるものだ。彼女はこれ以後、断固として拒否して、彼を絶対に受け入れない。もう、恋人酷似男が恋人だと分かったから、社会性に阻まれて本心を押さえる必要はないからだ。
この父の件は、実は恋人の母親が自分の遂げられなかった恋を想像の上で実現するために彼や関係者に嘘を言ったものだと分かる。おまけに、彼と彼女が兄妹ではなく、彼と幼なじみが兄弟だと分かる。それは、幼なじみの父が調べ上げた事だった。
で、彼と彼女はまた元に戻るはずなのだが、彼は、彼女を助けた時に負った頭の傷の後遺症のため、視覚障害を持つ恐れがあり、それどころか手術が遅れれば命さえ危ないと医師に宣言される。手術してさえ、命も視力も保証はないと言われ、彼は彼女から身を引く決心をし、彼女にこれを告げずに、米国で手術するためNYに向かう。
その直後、なぜか、幼なじみは突然、都合よく、自分の嘘を悔い、彼女に二人は兄妹ではないと、真実を告げ、後を追えという。彼女は空港に駆けつけたが飛行機は出た直後だった。
後日、幼なじみはNY行きの航空券を彼女に渡して、彼の元に行くように勧める。彼女は、元々、彼と兄妹だと誤解して別れた時、心の傷を癒すためパリに留学するつもりだった。彼女は、なぜかNY行きの航空券をソウル空港のベンチに置いたままシャルル・ド・ゴール空港に向かった。まるで超絶技巧シナリオだな。理解ができない。
恋人が自分の命が危ないから彼女の幸せを祈って身を引いたと知っていたなら、追うべきだ。彼の命が危機に瀕しているのは彼女を救うためではなかったか。しかし、その状況を作ったのは、彼が勝手に去ろうとしたからでもある。しかし、そのように彼を仕向けたのは彼女が彼の言う事を信じず、元恋人と認めなかったことにある。しかし、そんな状況にしたのは折角彼女が彼の元に来る決心をしたのに幼なじみの病院に行かせたことだ。しかし。。。という展開部は、クルクル廻るロンド形式でもあるなあ。
三年がたった。
韓国に戻った彼女に友人が、ある雑誌を見せる。そこには彼女のデザインした家が載っていた。恋人にあげた模型の家で、彼しか知らないデザインの家だ。彼女はその家を訪れる。三年前の別れの事情は、もう忘れているだろう。覚えていても、三年もたてば愛しさの方がすぐるのだろう。まあ、ありえる事態だ。そして、そこで視力を失った恋人に出遭うのだ。 a close encounter of the 3rd kindだ。第20回。最終回。ここでようやく結ばれる。
見事なソナタでしょ。
最初の提示部のテーマ=出会いが、再現部で再度の「出会い」となり、「解決」されている。ついでながら、上の粗筋のように、展開部は、まさに様々な形で展開されている。
この上の空白部には、粗筋とソナタの意味が書かれている。
お茶ブレイク
チュンサンとジュンサン
ヒーロの名前にこの二種の記述がある。
※韓国の言葉では語頭にくる音は濁音にしないという約束ごとがあります。この場合、苗字と一緒に発音する場合は「カン・ジュンサン」ですが、名前のみ発音するときは「チュンサン」となります。当ホームページ上では発音に準じて表記いたします。
--http://www3.nhk.or.jp/kaigai/sonata/より。
なんで、語頭は濁音にしないのだろう。面倒なのにと思うかも知れないが、これは珍しい現象ではない。
日本語も濁音に関しては連濁という現象がある。これが法則性がないので、一々覚えるより仕方ない。いい加減なものだ。おまけに人によっては連濁しない読み方をしたりでグチャグチャだ。
どちらにしても、朝鮮語の音は当然、日本語の音と同じではない。英語だって、RとLは日本語ではどちらの音でもないラ行で代用しているし、sとthもサ行で代用だが、全然違う音だ。「I see」を「アイ シー」と言っているのを聞くのは気持ち悪くてし方がない。中国の「北京」の英語表記は、昔はPeking、今はBejingだ。厳密には、異なる言語の音声体系は他の言語では表記できないのだ。
朝鮮語はまったく知らないが、濁音ってあるのかな?(上にあるとは書いてあるが)彼等と日本語で話していると、濁音の発音が難しいようだ。江戸っ子が、「ひ」と「し」の区別ができないのと同じだ。フランス人は、「H」が発音できない。というより、そんな音はない。字は歴史的な事情であるだけなのだ。だから、「ははは」は「あああ」だしね。「ひろしま」は「いごしま」になり全然わからない。「硫黄島」かと思ったよ。「Hitachi」は「いたし」だ。
日本人は、「しらみ」を主食にしている人が多い。
のみしらみ うまのしとする まくらもと
と芭蕉が詠んだ、あのしらみだ。
「Rice」の発音ができないので、「Lice」というからだ。We eat lice.初めて日本人に会った英米国人は驚くだろうね。
日本語の恐らく基盤となっているウラルアルタイ語族は、SOV型の文型を取る。Vは述語だから、動詞や形容詞の終止形、あるいは、終助詞が文末に来るということだ。つまり、文末の音は単調だ。横浜弁なら、「じゃん」。「そうじゃん」、「きれいじゃん」。水戸に行けば「だっぺ」だ。「そうだっぺ」。京都では、「かい?」が「け?」だ。「そうけ?」。。。どちらを汚いと感ずるか、綺麗と感ずるかは、文化による。
「そうかい?」。これに怖気を振るうくらい汚く感じるのは京都大好き人間の居候の偏見だ。共通語なんぞ、何しろ、野蛮人の住む化外の地(けがいのち;文化の外に置かれた野蛮の地)である板東(関東の古語;関東とは、都を守る関所の東、野蛮人達が跳梁する暗黒の地という意味だ。関西は、関の西、つまり内側で煌びやかな都の文化圏だ。あおによし 寧楽(なら)の京師 (みやこ)は咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり。首都圏にはこんな高度な文化はない。欧州と米国の対比に似ている)に住む蛮族たち(我々の事だが)が使っていた言葉が基盤になっている恐ろしく汚い言葉なのだと文化圏内にいた関西人は偏見を持っている。水戸人は、「だっぺ」が標準語だと思っていると喝破した水戸に住んでいる友人がいる。言葉とは、そんなものだろう。
あまり知恵の無い人々は、「渋谷、原宿、新宿」と聞くと、カッコイイと感じるようだ。居候に言わせれば、江戸時代、渋の草が辺り一面に生え捲くっていてカジカが鳴き騒ぐ小川が流れる、谷間。ススキが咲き乱れる野っ原にある薄汚れた宿場。武蔵野の鬱蒼とした林の入り口にあった場末の馬糞が風に舞う新しい宿場、だ。なんでそんな地名がカッコイイのかねえ。こういう地形や環境を地名にしたところは関東には多い。これらの名前は山手線沿線以外にもあちこちにある。
朝鮮語では、終助詞は「よ」であるらしい。多分、日本語では「ね」だ。「じゃん」、「だっぺ」もある。「よ」が日本語では、「それでよ」、「女房がよ」というように、少し下品だと思われているのをもって、朝鮮語は汚いと言う、頭に脳ミソのかわりに糠ミソが入っている人達がいることは覚えておく必要がある。異なる文化、言語からみたら「それでね」の方が遥かに汚いかもしれないのだ。もっとも、同じ「よ」でも、「そうよ」、「大きいわよ」、「行くわよ」というような女性言葉は可愛いと感じるから変なものだね。
ここでは、敢えて「朝鮮語」と書いた。政治論争を含まなければ、これで良いはずだ。「朝鮮」は、日本人の「大和」と同じで彼等の本来の誇りの根源だと居候は思っているからだ。少なくとも、「韓国語」ではない。NHKは、政治論になるのを嫌って外国語会話講座では「ハングル入門」とした。
しかし、この優れた民族が政治体制が異なると、北朝鮮のようなことにもなる。二つの朝鮮は、猿どもに牛耳られていた昭和初期の日本と、少し前のJapan as No.1と絶賛された頃の日本を同時に見ているようだ。
76.風邪に対抗する
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インフルエンザの季節がやって来た。ワクチン不足が起きているそうだ。ワクチンは生体の免疫を使って作るので、化学薬のようにプラントであっという間に大量合成するということができない。
インフルエンザはウィルスで起きる。ウィルスは細菌と違って遺伝子だけの存在だ。まあ、蛋白の殻を被ってはいるが、そんなものはすぐに脱げる。細胞のような組織はもっていない。ということは、生物の細胞の中に入っていけるのだ。ということは、化学薬は効かない。遺伝子を、つまりはDNAを殺す薬はないからだ。DNAを壊す−−殺すじゃないな−−薬品を使えば良いって?そんなことをしたら、人間の細胞内の人間の遺伝子も壊されてしまう。どちらもDNAだからだ。まるで同じものなのだ。違うのは、DNAの中に含まれる4種の塩基物質の並び方だけだからだ。そんなものを選択的に壊せる化学薬品などはない。その薬品を作ることができるのは免疫だけだ。免疫系は、自己と他者を識別する機構を持っているから、高度に選択的に自己のものではないDNAを分解する蛋白を合成できる。
ワクチンは、ウィルスを弱毒化したものだ。それを使えないときはどうしたらいいか?自分の体で直接にインフルエンザウィルスから作らせるより仕方がない。これはなかなか体力を使う。早い話し、風邪を引くわけだ。
ところで、風邪薬と称して、山のように薬局に並んでいるものは、ウィルスを壊す薬ではない。ウィルスを壊す薬品は上に書いたように人間は化学的に合成する力をもっていない。だから、エイズも、SARSも、癌も、肝炎も極めて間接的方法でしか対抗できず治すことが出来ていない。風邪薬はもっとひどくて、単に、対症療法に過ぎない。解熱剤、抗炎剤、抗ヒスタミン剤、咳止め、ビタミンなどしか入っていない。つまり、体内部でウィルスが猛威を振るっている時にそれを壊すことをせず、症状が出ないようにダマしているだけだから、危険でさえある。これで、症状が収まったと思って無理をすると治るどころか却って酷くなる。だから、免疫力が強く自信がある人が、一時的に症状を治める使い方以外には、こんなものは使わないほうがいい。風邪の症状が出て微熱があるときに解熱剤を使うと、免疫系が発動されないので、却って酷くなってしまう。勿論、熱が40度も出てしまったら別だが、そんなになったら市販薬では危険だから医者に行ったほうがいい。勿論、彼等にも直す力はないが、安静にさせ、免疫力を増進させる薬くらいは投与できる。
インフルエンザを治す力は免疫にしかない。これを発揮させるには安静が一番である。風邪?と思った瞬間から寝てしまうことである。免疫が出きるまでには5、6日かかるから、それまで安静が必要なのだ。
免疫を増進させる市販薬として、葛根湯がある。
これとビタミンC1000mgを、風邪と思った瞬間から合わせ飲むことがインフルエンザに対抗する最高の方法だろう。漢方だから空腹時に飲むことが重要だ。
葛根湯は、風邪薬コーナでも売っているが恐ろしく高い。3日分くらいで800円とか900円だ。普通の漢方薬コーナに行って、カネボウの葛根湯錠剤を買うのが最も安い。1月分で3000円程度だ。2割引き程度だ。
4.インフルエンザは薬では治らない
葛根湯の主成分には甘草がある。これに入っているグリチルリチンが免疫を強化する。
甘草の効果と注意
妊娠している人は気を付けてね。
漢方は穏やかだなんて嘘だからね。
77.政治屋の学歴詐称 2004.1
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政治屋(政治屋って、politician。政治家はstatesmanで、この違いは受験英語で習ったね)の学歴詐称が問題になっている。自分の学歴が良く分からないというだけで、もうこれはインチキと分かる。
大体、特別な大望でももたない限り米国に本当の留学などする必要は何もない。日本の大企業も、大学も基本的にはアッチの学歴など問題にしていないから就職には何の役にも立たない。
米国にいわゆる留学するのは、この大望を持った特別な意図のある非常に優れた人でなければ、最初から学歴詐称を意図していくようなものだ。日本の大学に受からないのであっちでインチキしようと。芸能人に良くあるやつだ。本当の学歴を米国で作るのは日本の大学に行くより難しい。だから見えないところでインチキをしようとする意図が見え見えではないか。
だいたい、UCLAとCSULAとを間違えるかい?それって、「私立東京都大学」へでも行って、私は「東京大学」卒ですと間違えるようなものだ。そういうみっともないことを言っているのが国会議員なんだから、日本のレベルも見えたりだな。
アチラの大学の市民講座や、外国人用の講座を聴講して、私はハーバードに行って来ましたといえるのなら、明日、本郷に行き、赤門から入って正門から抜けて、私は東大に入りましたといえるじゃないか。ついでに、正門辺りの掲示板を見ると、なにやら講演のお知らせが貼ってあるのでそれを聞いてきて東大卒って言えばいい。卒業証書?引っ越しているうちにどこかに行っちゃったよって。
居候の知人に東大の大学院を出てから、UCBの大学院に行ったあまり頭の良くないのが居た。UCBというのは、PCをやっている人ならFreeBSDで知っているだろう。the University of California, Berkeley、カリフォルニア大学バークリー校だ。UCBってのは、そこの教授達が、「UCLA?うん、まあ、あそこも悪くないね」という位の超名門校だ。どこかの政治家が詐称したUCLA(the University of California, Los Angeles)カリフォルニア大学ロサンジェルス校など本当は目に入っていない。とはいえ、UCLAってのは、名門であることに変わりは無い。できのわるい政治屋なら憧れる程度にね。それに、ノーベル賞受賞者は東大より多い。京大と良い勝負かな。卒業生の数で言ってるのか、現役の数なのかよくわからないが。ただ学生数が目を剥く位に多いからピンキリだ。
で、くだんの知人は、青息吐息で勉強していた。良くしられているように、米国の大学は入りやすい。UCBやハーバード、MITとかスタンフォード、CMUなどの超名門校は、それなりに難しいが、LAの片隅にある聞いたこともない大学なら、誰でも入れる。問題は、出られないのだ。だから、一時そこに籍があったということは何の意味もない。0だ。日本なら、東大中退は、それなりに意味がある。入試に受かることがまあ、大体の程度があることを示すからだ。米国の大学では中退は何の意味もない。入るのは誰でも入れる。そして日本の大学のように卒業証書をダダ漏れには出してくれないので、中退になるのだ。
UCBの彼が青息吐息になって勉強していたのは、そもそも授業が英語、教科書も英語だから、これがもう大変だからだ。間違ってもらってはこまるが、彼は日本的水準では英語はベラベラ。偏差値的に言えば、81点くらいあるんじゃないかな。
でも、ネイティブに混じって付いていくのは容易ではない。予習復習をやっていかないと講義がまるでわからなくなる。おまけにもの凄い量の宿題が出る。英語が斜め読みできるくらいにならないと、時間が足りなくなってしまうのだ。一日48時間になれば少し楽になるらしい。
つまり、米国の大学をまともに本当の単位を取って卒業してくるのはナマジなことではできないのだ。六年居ようが、十年居ようが単位を取り卒業証書をもらわない限り、それはテニスをして遊んでいただけのことだ。
聴いたこともない大学の文科系の学部なら、講義の内容などどうでも良いだろうが、英語が超超出来なくてはお話しにならないのだ。試験だって、問題を読んでいる内に時間切れになる。とても、解答を「英作文」している時間はない。「純粋理性批判の本質を1000wordsで示せ」って言われたって、書けないでしょ。catやdog程度しか知らない程度の英語力では、英作文以前に単語が出てこない。ま、こんな難しい問題は出ないが。
問題の政治屋に中学三年生程度の英語の試験をしてみれば、分かることだ。あるいは、英会話でも良い。「Yes,OK,Good morning,thank you」程度の英語では教授がまくし立てる英語など聴けるわけもない。そこに教養学部レベル程度のハイデッガーや、カントの講義が出てきたら、もうお手上げじゃないかい。Daseinとかepistemologyとかね。単語が一つも分からないってね。いや、a,the,in,is,are..は分かるかもしれないがね。(これ、実は分からないんだよ)
米国に言って、日本の恥を曝し捲くるのは止めて欲しい物だ。福岡の納税者のレベルを見ている気もするな。ま、日本のレベルでもあるが。
78.新しい電話機を使いIP電話で0000を付けたときに電話がかからない 2004.1
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シャープのコードレス電話が雑音が入るようになったので、買い替えた。普通のBBフォンは掛かるのだが、まれにBBフォンではなくNTT電話で掛けたい場合もあり、その場合、通常の電話番号の前に0000と0を4つ付ける。第二電電が0070とか0080のようなものだ。
で、新しい電話をつけたら、0000をまわすと、ツーと言ったままで繋がらない。BBフォンアダプタの上にあるVACという電話が繋がるとつくLEDは消えてしまう。このVAC、
(1)普段は消えていて、
(2)受話器を上げると点く
(3)0000をまわすと、点滅してNTTの交換機に繋ぎにいく
のが正常なのだ。
新しい電話では(3)で0000をまわすと消えてしまうのだ。
他の電話機ではつながるのだからこの新しい電話が悪いのだ。
100ページ以上もあるシャープ電話のマニュアルから一体どこが悪いのかを探すのは容易ではない。
索引は大体、役に立たない。目次もまるでだめ。
結局、最初から順に読んで行くしかない。シャープさんも、こういうところに「目の付け所の違う」ことをやって欲しいものだ。
で、この新しい電話は、「お任せ通信設定」とかなんとか言う機能があり、IP電話アダプタがあると、トーンとパルスを間違えるのだ。全部、トーンにしてしまうらしい。だからパルス契約の場合、問題がでる。
通常は、電話機とアダプタはトーンで繋がり、アダプタはNTTの交換機ではなくIP電話会社のルータに繋ぎにいくので、NTTとの契約がなんであっても関係なくて、これは見逃しがちになる。
処置方は、手動でNTTとの契約してある設定にする。
トーンというのは、昔はプッシュホンと呼ばれたもの。パルスは、クルクルまわすダイアルだったが、今は、トーンもパルスもみな見掛けはプッシュホン、ボタン電話になってしまっているので、NTTとどの回線で契約したかを見ないと詳しい人でなければ分からないだろう。
で、パルス回線契約の人にトラブルが起きる。上記、電話機の手動設定のメニューを表示させると、10か20の値がある項目がある。これがパルス。いまどき、10パルス/秒の交換機を使っているNTTの電話局はないので、これを20にする。
電話機の「お任せ通信設定ソ」ソフトは、NTTの交換機ではなく、その手前にあるIP電話アダプタを交換機だと思って通信して、現在の回線を割り出すので、IP電話アダプターが返答として返す「トーン」だと思ってしまうのだ。で、0000を押すと、IP電話アダプタはIPフォンのルータではなく、通常のNTTの交換機に繋ぐが、IP電話アダプタと交換機の間は機械的にはNTT回線なので、パルスで契約してあればパルスの交換機につながる。そこへ、ピポパというトーンの信号がいくものだから、交換機はそんなものはしらないと切ってしまうので、VACのLEDが消えてしまうのだろう。
「目の付け所が違う」のは結構なことだが、「気配り」が伴なわないと、なかなか一般消費者は大変だよ。
お茶ブレイク
コードレス電話を使えば、一回線に何台も電話をつなげられる
昔の電電公社時代の回線は、一本に3台までの電話機をつなげられる設計になっていた。電子交換機になって、NTTが設計をどうしたか知らないが、3台つけても別に不都合はおきていなかった。
BBフォンのアダプタを付ければ、電気回路としては、NTから見た場合、電話機はアダプタの1台しかついていないことになる。
次にアダプタに電話機が何台つくかが問題になる。BBフォンの保証は当然1台だが、3台つないでも別に問題は起きていない。もっと増やしたい場合、子機付きのコードレス電話を使えばいい。子機が2台ついている電話機は、親機と合わせて3機の受話器があることになる。しかし、子機の2台は親機が面倒みているのだから、BBフォンのアダプタから見た場合、電気回路としては1台しかついていないことになる。だから、この電話機を3台BBフォンのアダプタに付ければ合計9台の電話機がついたことになる。BBフォンのアダプタから見た場合は、3台しかついていないことになる。NTTの交換機から見た場合、1台しかついていないことになる。というわけで、我が家にはトイレにも電話が置いてある。。。というのは嘘だが。するのは簡単だ。
79.不動産の抵当権抹消登記の方法 2004.2
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「司法書士」仕事とか、「税理士」、「会計士」仕事とか、「弁理士」仕事とかいうと、何がなんだか分からないというのが、一般的印象だと思う。居候も仕事柄、弁理士、会計士、税理士のような仕事はしたことがある。いや、彼らにしてもらうのだけれど。。。司法書士は、要するに、法律的な届に関わる書類を書いてくれる人だ。法律関係書類(運転免許の更新書類なんてのもそうだ)を書くなんて程度のことは日常生活でも経験がありそうなのだが、以外にない。で、ひとつ、抵当権抹消の登記でもしてみるかと思って、自分でやってみた。
まあ、以外に簡単だ。とは言え、書類仕事が苦手な人は、面倒だから、司法書士に頼んだ方がいい。コンピュータのプログラマなら、緻密な文書(自分で書いたプログラムね)を毎日見ているんだから、簡単なものだ。こんなものに4万円も払うのは馬鹿らしい。ある大手の銀行から抵当権解除の代行の案内が来た。何が何だかわからないでしょう。司法書士がどこにいるのかもわからないのではないでしょうか。そんな時は私どもにお任せ下さい。弊社契約の司法書士のご紹介から一切の手続きを代行します。お代は、たったの3万6千円+実費です、と書いてあって、目を剥いた。実費は、司法書士の交通費と、印紙代だ。
お茶ブレイク
登記とは何か、何の為に行うのか
一つ、手続きの前に注意しておくと、「登記」の目的は、あなたが自分の不動産を自分のものであると法律的に主張、保護することだ。決して、国の為、他人の為に行うものではない。これが何を意味するかというと、意外に、いい加減な手続きだ。書類に間違いがあっても「国」=役所の知ったことではないからだ。間違った結果、不利益を被るのは貴方であって他の誰でもない。だから、登記所は間違いに対して鷹揚だ。
貴方が貴方の権利を主張するための手続きだから、やらなくたって良い。他の法律的手続きを遅れたり、やらなかったりすると結構、役所に叱られるが、登記に限っては叱られることはない。只、しておかないと、知らぬ間に貴方の家や土地が他人の物になっていることが起こり得るだけのことだ。
で、とりあえず、ざっとやりたい。という場合、下記「抵当権抹消登記、私の場合」が最高だと思う。
Wordで書いた。「 登 記 申 請 書」の雛型まであるから、それをダウンロードして、チャッチャと、内容を自分に合わせて書き換えれば、それで終わり(でもないか。終わらない人はここ)。

赤字部分は、「抵当権抹消登記、私の場合」と異なったり、人によって差があり、分かりにくい所。
権利者(何乃 誰兵衛)は自分のこと
当然だけど、住所、物件、日付は人により違うが赤字にしていないよ。そんなものこれを写さないでね。
エッ、そうなのと思った人は司法書士に頼もうね。
自分で作るのは、この登記申請書だけだ。
手続き;
・1回目;上記、登記申請書を書いて(手書きでも良い)、信用保証会社や金融機関から返されてきた抵当権抹消書類一式をもって、
その抵当権を登記してある法務局に行って、間違いを直してもらう。
登記申請書は、原則はあるが、細部は千差万別で素人には絶対に一回ではわからない。何しろ、登記所の職員でも、人により言う事が違うからね。司法書士でも相談しているくらいだ。それに金融機関から送られてくる書類の書式も千差万別だ。一度は指南してもらいに行くよりしかたがない。結構、訂正されるが、訂正印で済む程度なら、その場で申請できてしまう。つまり、下記2回目がいらない。真っ赤になるくらい間違ったら、書き直すことになる。
・2回目;本番を書き直して、法務局に行って、登録免許税分の証紙を買って、貼り(どこに貼るかは、上記相談窓口で聞こう)提出。ただ、慣れると、間違いは数か所程度に収まるから、書き直しはしないで、その場で直して、訂正印を捺すだけで済むから、この2回目の過程は無くなる。
・3回目;1,2週間で法務局から通知がくるから、取りに行く。
と自分でやると、3回は法務局に行くことになる。
費用;
銀行のお姉さんが親切に教えてくれたのは、
・「登録申請用紙」が3000円かかります。
・司法書士代が、司法書士さんが登記所に行く交通費と、手数料1〜3万位かかります。
ということだったが、「「登録申請用紙」が3000円かかります」は用紙じゃなく「登録免許税」。これは不動産に依存する。2000円の人もいれば、20万円の人もいる。下記。
お茶ブレイク
銀行員の無知ぶり
それにしても、銀行員って業務の知識が無限に0に近い。みずほ銀行の計算機(CD,ATM)事故など起きて当然だ。
このお姉さんだけじゃなく、別の銀行のお兄さんやらも、まるでおかしなことを言う。で、「お前さんは、これはいかん、あれはできんというが、この書類を見なさい。ここに、私が言ったことは全部できると注釈してあるじゃないか」と教えて上げた。この書類というのは、その銀行の窓口に置いてある普通の申請書類なのだが、かのお兄さん、「お客様は、金融関係の方でしょうか?」ときた。「そうじゃないよ。こんなことくらい、銀行の業務として常識でしょ」。やれやれだ。こんなのに高いサラリー払っているんだから、銀行が潰れそうになるわけだ。
・登記所(法務局)の手数料(登録免許税)は、家屋と土地の筆数だけかかる。1筆1000円。
普通の家なら、土地1筆、家屋1筆で、合計2000円だ。
それでも、土地が、50坪+1坪なんてなっている場合もある。その土地の歴史だね。
この場合、土地だけで2000円。
マンションは要注意で、地上げしてあって、地主が30人もいて、それが筆数になっていると、30x1000円。
抵当権設定書類の裏を見ると、ずらりと並んでいるからすぐわかる。
一般的注意(「抵当権抹消登記、私の場合」に関して);
・自宅の場合、「不動産の表示」の仕方がマンションとは異なる。上の例は、マンション。
・マンションでも、土地の扱いが色々あるらしく、不動産の表示の仕方が微妙に異なる。
・xx番抵当権 xx番はいらないこともある。法務局で聞きましょ。いくら書類見てもわからない。
・自分の住所は、登記した時の住所(登記書類に書いてある住所)で良い。今、現在、住民票がある住所でなくてOK。本当は、キチント変えておかなければいけないのだが、登記所はあなたの住所などは、立場上、知らない(知らなくて良い)ことになっているので、OKなのだ。いらぬ事を聞くと、担当官によっては、グチグチと言うかもしれないし、最悪、まず、住所変更手続きをしてからと意地悪を言われるかもしれない。そしらぬ顔をして、登記書類に書いてある住所を写しておけばよい。抵当権解除で住民票が必要になることはないからだ。
お茶ブレイク
家を買う時、まだ、買った家に引っ越していないので、当然、旧住所で登記する。そして、新居に引っ越すから、今住んでいる住所と、登記書類の住所とは異なるのが普通だ。だから、登記所は、そんなことはグチグチ言わないのだが、担当官によっては言うかもしれない。知らん顔をしていればいい。
居候の場合、異動で一時、今の住所を離れていたことがある。そうすると、買う前に住んでいた住所と今の住所の間に、更に住民票の移動が起きているので、買う前に住んでいた住所と現住所をつなぐ証明ができない。住民票には、どこそこから転入と書いてあるが、そのどこそこが、買う前に住んでいた住所ではないからだ。
A市→B市と移動した場合、B市で住民票を取れば、A市から転入と書いてある。しかし、
A市→C市→B市と移動した場合、B市で取った住民票には、A市から転入したとは書いてない。
A市が、B市にある現在の家を買った時に住んでいた家の場合、ちょっと面倒なことになる。
担当官は、すごく親切に、あの書類と、この書類と、あれもと、3か所位の区役所、市役所に行って、様々な聞いたこともない書類を取ってこなければならないような事を教えてくれた。彼は、意地悪で言っているのではない。親身になって方法を考えてくれていたのだが、冗談ではない。そんなものは要らない。
・登記申請書は、必ず多角文字を使う。銀行(信用保証会社)から来た抵当権設定書類が、どう書いてあろうとも、
登記書類は多角文字で書かなければならない。
「抵当権抹消登記、私の場合」には、抵当権設定書類に書いてある
通りに写せば良いと書いてあるが、だめ。
0 壱 弐 参 四 五 六 七 八 九。拾、百 千などの桁を表す数字は使わない。
「123」は、「百弐拾参」ではなく、「壱弐参」。
ただ、例には、「11月」が「壱壱月」ではなく、「拾壱月」になっている。それほど、気にすることはないのだろうが、^^;正確には、「拾」は不可。
・「添付書類」の項に書いてある「申請書副本、登記済証」などは、送られてきた書類と名前が結構違っている。
同じ内容をあらわす異なる名称なので、このままで良い。とにかく、法務局のお姉さんに相談しよう。
お茶ブレイク
登記申請書の中の「添付書類」の項目
これが、分かりにくい。
・原因証書(抵当権解除証書)または申請書副本
これは必須だ。ところが、送られてきた「抵当権解除書類一式」の中には原因証書がないことの方が多い。まじめにこれを送って来たところは金融公庫だけだ。つまり、いくら探してもないのである。
で、その時は、「登記申請書」そのものをコピーして代用できる。それが、「申請書副本」ということだ。原因証書がある場合は、「原因証書」と書いておく。「登記申請書」そのものをコピーした時は、「申請書副本」と書いておく。
・登記済証
これは、必ず送られてくる。要の書類だ。不動産の登記が朱色の判子で示されていて、不動産の住所が書いてある書類だ。「登記済証」と書いてあるとは限らない。いろいろな名称になっている。
それが、どれだか判断できないようなら、この手続きを自分でやるのは到底無理だから、大枚3万円を払って、司法書士に頼もう。
・代理権限証書(資格証明書原本還付請求)
これは、「委任状」のことだ。本来、金融機関が抵当権解除するのだが、誰かに委任するもので、それをあなた自身がやってもいいし、司法書士に頼んでもいいが、その実務をやる人の名前をかく。が、これが、分かりにくいので、書かないで登記所で教えてもらいながら書くのが良い。書き方が担当官の趣味によることもあるので、彼/彼女のいう通りに書く方がいいのだ。一度、論理的に正しい書き方で持って行ったら、グチグチと愚痴を言ったオバチャンがいた。
「登記申請書」には、「委任状」と書く必要はない。「代理権限証書」で良い。で、委任状には、委任した金融機関の身元を示す書類が付いていて、それには「原本還付」という赤い判子が捺してあるのがふつうだ。これは、送り返さなければならないので、登記所にはコピーを取って持って行く。
委任した機関が正当な資格を持っているということをしめしたものが、「資格証明書」だが、その原本は返さなければならないよということを「資格証明書原本還付請求」という。原本還付と書かれてない場合、「資格証明書原本還付請求」は書く必要がない。
なお、上記のコピーは勝手にワープロで作ったものではなく、本当に原本があるということを担当官に見せなければならないので、委任状原本も持って行く。
・変更証明書
これは、金融機関が名称変更している場合、その証明書と、関係書類を送ってくるからそれを添付したよということを示す項目だ。富士銀行から借りていれば、今はみずほ銀行だ。もっとも、銀行は、保証会社に代行させているから、銀行名が直接でることはないが、銀行名が変われば、その小会社であることが多い保証会社の名前も変わっているだろう。勿論、そんな書類がなければ、この項目を書いてはいけない。
単なる、名称変更ではなく、他の会社に吸収合併されていることがある。その場合、抵当権もその吸収した会社に移るから、「変更証明書」だけではすまない。その場合、その旨を示した書類が送られてくる。
以上、「登記済証」、「原因証書」、「代理権限証書」、「変更証明書」などの名称は、送られてきた書類と違っていても、内容的にそれを示すものであれば、このままでよい。「代理権限証書」などない。「委任状」しかないから、「代理権限証書」ではなく、「委任状」と書こうと考える必要はない。「代理権限証書」でよい。
・「原因証書(抵当権解除証書)」は、金融公庫は発行するが、銀行で借りた場合、信用保証会社が代行しており、
ここは出さないらしい。で、もちろん、「登記申請書」のコピーで代用。
・土地の地番は現在の住所ではない。昔の登記の内容だろうか。
一つのマンションなのに、昔、100人に地主がいて、それを纏めて新登記していないと、100筆になる。。らしい。
ということは、一筆につき、登記手数料(登録免許税)1,000円だから、土地だけで、
なんと、100,000万円かかる。
建物は一筆で、1,000円。マンションは要注意。100筆は大げさだが、20筆なんてよくあるらしい。
「抵当権抹消登記、私の場合」と違っていた点;
・登記の目的 抵当権抹消。 「xx番抵当権抹消」ではなかった。「xx番」は不要
・義務者が、保証会社の場合、「主債務消滅」。銀行から借りても、保証会社に廻っているから、「義務者」を確認。
弁済か解除かは、借金を返した時、抵当権抹消書類が後日送られてくるから、そこを見れば分かる。その通りに写さないと間違いになるので注意!
金融公庫などは、「弁済」だ。保証会社なのに「解除」と書いてある書類もある。一応の、目安は、
保証会社=主債務消滅 金融公庫=弁済 他の金融機関(銀行など)=解除
法務局のベテランの担当官が説明して下さった;
「弁済は、「借金を完全に返した」という意味です。「解除」は、「抵当権を解除した」という意味です。なぜ、このような区別をするのか私にも分かりません。本来、お金を返したのだから「弁済」ですよね。「解除」というのは、向こうが勝手に抵当権を解除したともとれます。不遜な感じがします。「解除してやる」という印象ですね。借金をまけてもらったわけではありませんよね。」
弁済した結果が解除なのだが、弁済しなくたって、銀行の恩赦で解除してやるよということになるかもしれないではないか、偉そうに言うなということだ。
保証会社の場合、保証会社に金を返したわけではないので、主債務消滅になる。
・「「兼義務者代理人」と、「権利者」と書かれた横に追記されました。私のように、
権利者自身が義務者(金融機関)から委任された人間の場合は、こう書く必要があるようです」
と書いてあるが、
お役人の流儀があるようで、「「義務者代理人」の項が5行位後ろに別途あるから、重複します。必要ありません」といわれた。
・以上の書類は、最低2部コピーしておく。全部じゃないけど必要だからね。
抵当権抹消登記、私の場合
ここは基本。簡にして要を得ている。
自分でできる!抵当権抹消手続き
上記「私の場合」というように、マンションの例しかない。
ここも補助的に読んでおくと良い。「抵当権抹消登記、私の場合」に抜けていることがわかる。
自分で申請する抵当権抹消登記
ここは、かなり本格的。書類が詳しいので、上記のHPで分からない場合、ここをじっくり読む。
抵当権移転登記申請書の書き方
信用保証会社が、長い間につぶれて、吸収合併されてしまった場合。権利移転が行なわれている。そうすると、古い信用保証会社→新しい信用保証会社への抵当権移転登記申請と抵当権抹消登記を同時にする必要がある。抵当権移転登記申請書の書き方は、ここに懇切丁寧に書いてある。抵当権抹消登記を書いた事があれば、楽勝だ。。。と思う。
登録免許税は、「印紙」を買って、申請書に張る。印紙販売所は、登記所の片隅にあるので、
「抵当権抹消用の印紙」
と言って買うこと。他のものとは種類が違うので注意。
権利移転を自分でする場合、抵当権解除と同時にすることになるので、どちらか一方だけを司法書士に頼むことは、送られてくる書類の都合上できない。(兼用になっている)この場合、移転登記は、本来、信用保証会社がしておかなければならないものだから、その登録免許税と、司法書士料金(一万円前後)は、その会社に請求できる。
その場合、登録免許税の印紙を買う時に、レシートをもらっておくこと。
レシートは、「売りさばき」証明と言う名である。
歴史を感じさせるね。印紙販売窓口は、「売りさばき所」だ。
神奈川県の法務局(登記所)は下記。
自分の登記がどこでされているかは、抵当権設定書の法務局印を見れば分かるが、印鑑の書体って、読めないよね。
聞くよりないと思う。
神奈川県の登記所(地方法務局)
ここまで読んでも、良く分からん、という人は2つの手がある。
・大枚1万〜4万円払って司法書士に頼む。
・細部に拘らず、冒頭に掲げてある図の通りに書いて(つまり間違った所があるまま)
登記所(地方法務局)に持っていく。そうはI言え、いくらなんでも、住所とか、自分の持ち家
の住所まで写さないでよね。そういう人は、司法書士に行こう。
80.アラブのメンタリティ; 邦人誘拐事件の背景 2004.4
目 次
日本人三人がアラブゲリラに誘拐されたということで、大騒ぎになっているが、誘拐と惨殺には何の不思議もない。あそこは、そういう地域なのだ。三人は、その覚悟で行っているはずである。命を投げ出す覚悟が無ければ、とてものこと、行けるところでは無い。邦人の退避勧告も出ていた。それなのに家族があんなに泣き騒いでいるということは、何の覚悟もなく行かせたのだろうか?彼らは、イラクの為に命を懸けて、死ぬ覚悟で日本を発ったのではなかったのか?
既に、外交官二人が殺害されてもいる。もう随分、昔の話になり、大方の日本人は知らないか、忘れてしまっただろうが、「悪魔の詩」の翻訳者である筑波大学教授は、翻訳書を出版するや、あっという間にイスラム・テロリストに暗殺されてしまった。それも、筑波大学構内でだ。こんなまねをされても、マスコミは何も報じない。警察も犯人を挙げること無く口をつぐんだままだ。政府は、一顧だに主権侵害を顧みようとしない。こういうやりかたがアラブでありイスラムなのだ。暗殺は、歴史的にイスラムの御家芸だ。暗殺訓練学校まであったくらいだ。あったどころではない。今もゲリラとして存在している。そういう所に、自ら進んで行ったのだ。
我々は、欧米の論理、あるいは日本の論理で物を考えている。しかし、それは唯一の思考法ではないし、当然、唯一の正義でもない。そもそも正義とは何であるか、答えはない。多分、最大多数の最大幸福を選択する規範だろう。そして、最大多数の最大幸福は、環境によって異なる。環境とは、歴史であり、今生きている状況であり、宗教であり、文化であり、家庭であり、要するに個人を取り囲むすべてである。我々が何をいおうとも、イスラムの最大多数の最大幸福は、所詮、我々日本人にはわからない。我々の正義が卑怯、卑劣というものが彼らの正義かもしれないのだ。
日本においても、五十有余年前、旧日本軍の若者達は、爆弾を抱え特別攻撃隊として、片道の燃料だけを積んだ戦闘機で太平洋に飛び出していった。命を懸けてアメリカ艦隊に飛行機ごと突撃するために。魚雷を積んで片道の燃料だけで、アメリカの軍艦に突撃するために出港していった特殊潜航艇もある。
欧米の圧倒的な軍事力に対抗するには、ゲリラ戦しかない。知性も教養もない無知蒙昧な連中が、最新兵器と戦うには、卑怯と言われようと、卑劣と言われようと、それしか方法がないではないか。そして、それは彼らの正義かもしれない。そして、多分、正義なのだろう。我々の正義が正しく、彼らの正義が間違っているという根拠はどこにもないのだ。これは正義のぶつかりあいであり、正義と別の正義の戦争なのだ。
イラクに行くには、そう言うことを考えていたはずだ。物見遊山ではない。
卑怯も、卑劣も、欧米や、日本の倫理観である。彼らにはそんな倫理観はない。卑怯も卑劣も、欧米世界で、一種、争いを惹起しないために考え出された人間の取るべき道なのだが、もともと砂漠の民にはそんな甘い方法は通用しない。「やあやあ、我こそは」とやっている間に、寄ってたかって砂漠の民であるモンゴル兵士に殺された鎌倉武士をみればわかる。それを卑怯だと罵ってみても始まらない。発想の根源が違うのだ。彼らにとっては、戦いは勝ってなんぼのもので、負けては、武士は食わねど高楊枝というわけにはいかない。死があるのみである。これが砂漠の民の掟なのだ。
第二次大戦後、もし、ソ連が、本州に侵攻してきて、占領していたら、居候は今ごろは南アルプスに立て篭もり、北朝鮮から核爆弾を買い付けて、ソ連東京政府にゲリラ戦を仕掛けていたに違いない。ソ連は、ロシアになって、いまだ北方領土に居座っているが、スラブ民族もあんなものだ。スラブというのは、英語のスレーブ、奴隷という意味だが、そういう過酷な歴史を背負っている民族に欧米流の卑怯も正義もないのである。あるのは、勝つか負けるかのみである。
しかし、欧米の論理に少し分があるのは、彼らは数千年の歴史をかけた流血の末、できうる限り普遍的な思考法を試行錯誤で探してきたことだろう。ヨーロッパの歴史は流血の歴史でもある。キリスト教は、オームもびっくりという残虐非道を二千年近くし続けてきたではないか。高校世界史は、ヨーロッパの戦争、宗教戦争の歴史であった。だから、「私はクリスチャンです」という日本人に会うと、居候は反吐が出る。クリスチャンであるのは勝手だが、聞いてもいないのに、わざわざそれを、私は博愛主義なのですよというつもりかどうかしらないが、言うことはない。とにかく、欧米は、散々、他民族・他国との戦争、同民族内での内戦、異教徒との戦争の末、ようやく多少の普遍性に行き着き、正義ズラをすることができるようになった。旧日本軍も、アラブもこの点では、欧米に一歩負けている。ただ、この普遍性は、全人類を覆うほどには至っていない。異なる普遍性がまだまだあるのだ。その普遍性=正義の戦いが今、起きているとも考えられる。人類の考えは、多様なのだ。
アラブのメンタリティ=心や考え方は、一種の甘えでできているが、一部の日本人のような何も考えていない「甘えの構造」とは、まったく異なる。同じ人間だと思って行動すると、大変面倒なことになる。9月11日の貿易センタービルへの民間機による突入テロを本気で考えてみたまえ。彼らの心の動きがいかに一般的な現代日本人のそれと違うかがわかるだろう。とはいえ、ほんの30年ちょっと前、よど号ハイジャック事件や、テルアビブでの空港乱射事件も日本人が起こしたものだ。似たようなことを考える連中は、これまた、どこにでもいる。普遍性と多様性はせめぎあうのである。
ちょっと、歴史を紐解いてみよう。
バクダッドは比較的新しい都である。アッバース朝が八世紀中頃に、世界四大文明の一つ、チグリス、ユーフラテス文明発祥の地に作った都市である。
その後、チンギス・ハーンが本国モンゴルから遠く離れたこの地にまで殺戮と征服の手を延ばしてきた。チンギスはモンゴルで散々な殺し合いをして国を奪うと、次は、ユーラシア大陸の支配を思い付いた。チンギスについて、井上靖の「蒼き狼」のような気高い人間を考えてはいけない。あれは売るための小説なのだ。
チンギスが遠征したユーラシア大陸の内部。この広大な大地には国家と言うほどの組織された体制はなく、小さな部族がそれぞれの地域に割拠して住み分けていた。村は、平たい砂漠の続くその地域で、万が一、敵に襲われた場合のために、ちょっとした城壁で住居地区を囲んで守っていた。「ちょっとした」ではない、立派な城壁だと、写真でも見て感じたなら、既に、相当甘い考えを持っていることになる。日本の個人の家の塀としてなら、大したものだ。だが、あれは、民族の命の砦なのである。それが、あんな程度のものなのだ。あれを破られたら、虐殺が待っているのだ。この砂漠の中の小さな村を後世、「都市国家」と呼んだが、なんのことはない、ラクダや羊を飼い、土を耕す単なる田舎の寒村にすぎない。
日本の戦国時代の城とこの村の城壁とは、まったく意味が違う。日本の場合謙信も信玄も、信長も、これら、群雄は百姓は殺さなかった。相手の大将の首一つとればいいのである。そういえば、信玄は城さえ作らなかった。人は石垣、人は城、とかいっていたという。日本のこの甘さは世界でも異様というしかない。
砂漠の「征服」は日本の戦国時代の戦争のような甘いものではない。苛烈を極める。住人を根こそぎ殺戮するのだ。チンギス・ハーンの通った後には、生命と名の付くものは何も残っていないといってよかった。血も涙もない残忍、残酷、冷血の世界なのだ。チンギスの遠征とは、彼の通り道に、たまたま住んでいた民族を一人たりとも生かしてはおかない苛斂誅求の旅だったのである。
不幸にも彼の通り道に住んで、都市国家と呼ばれる小さな村を営んでいた多数の民族の城壁は、回りの村との喧嘩から身を守る程度の物だから、モンゴルのような本格的帝国の大軍にとってはガラスの壁のようなものだ。田舎の村は一瞬で重武装した騎馬軍団に蹂躙され、女、子供も全て虐殺された。これらの抹殺された民族は、今は存在しないゆえに、どんな民族であったかさえわかっていない。ただ、史跡だけが往時を語る。この虐殺は、ただ、単に偶然モンゴル軍の進路上に住んでいたというためだけの理由で行われた。チンギスは都市国家の殲滅により後顧の憂いを断って進軍した。
チンギスの帝国は愚昧な帝国ではないと、後世のあまり考えのない歴史家はいうが、愚昧でないなどは、当然のことである。チンギスの帝国の行った行政は、国家としてなら当たり前のことでしかない。自分達が繁栄する普通の事を行っただけだ。チンギスは、大きな観点からみれば愚昧で残忍、冷血、暴虐な人間以外のなにものでもないのである。
彼の子孫はヨーロッパ本土にまで侵攻した。ポーランド西部リーグニッツの戦いでヨーロッパと初めて対峙した。今のヨーロッパを考えてはいけない。当時のヨーロッパは、まるで、砂漠の都市国家に毛が生えたようなものだ。ただ、人口密度は高かった。砂漠よりは。これが幸いした。モンゴル軍は、まだ組織化が進んでいなかった弱体なヨーロッパ連合軍にもかかわらず、その防衛線を、勝ったとはいえ結局は突破できなかった。砂漠に点在する村ではなく、本格的に人が密集して住んでいるヨーロッパの中心部に入って行って、果たして勝つ事ができたかどうか。できないと恐れをなしたのだろう。モンゴルの破竹の進撃はここで止まる。
後世、チンギスを無敵の英雄のように呼ぶが、国として組織されていない、軍もない単なる村でしかない部族を重武装した騎馬軍団が襲う行為は英雄でもなんでもなく、日本人的感覚では弱い者いじめにすぎない。モンゴルの破竹の進撃とは、小錦関か、曙関が幼稚園児の群れに突っ込んでいくようなものにすぎなかった。今のヨーロッパとはまったく異なる、あの当時の弱体ヨーロッパにさえ、チンギスの息子の軍はそれ以上侵入できなかったのだ。
国の体をなしていないアラブの地域は、モンゴルの攻撃にひとたまりもなかった。モンゴル軍はここに彼らの国を作った。そして、過酷な、ロシア地域では「タタール・モンゴルのくびき」と呼ばれた支配がはじまったのである。チンギスの孫フラグ・ハーンの時代であった。その後、オスマン・トルコの支配を経る。このオスマン帝国も苛斂誅求であった。周囲の国はトルコと聞いただけで震え上がる残虐さだった。そして、第一次世界大戦後、イラク共和国がようやく起きた。
こんな歴史の中を生き抜いて、今に継いでいる人々の「生きていく」という意識がどんなものであるか?イラクにいくのなら、その程度は理解しているべきで、居候などは怖じ気が付いて、最近は飛行機にも乗りたくない。
同じ人間だから、同じ考え方をすると、話せば分かると、島国で育ち苦労を知らない甘ちゃんな日本人がよく言う言葉である。しかし、そのような考えは、人の考え方の多様性を知らない、単純な人間の単純な期待にすぎない。
しかも、人の考えの多様性を知らないということは、多様性を認めないことでもある。認めるも何も、多様性という発想がなければ、他にも考え方があるなどとは思いも付かない。
それは、独善と表裏を成す。独裁はそのような人の心から起きる。独善と独裁はこれも表裏一体である。単純な人間と言う物は怖い物なのだ。
事をなさんとするならば、それ相応の準備が必要であることは言うを俟たない。
彼を知り、己を知らば百戦して危うからず。
彼を知らず、己を知らざれば戦うごとに必ず危うし。
彼=理想、己=現実
と考えて見れば、今回の事件の本質がわかる。
より即物的には、
彼=アラブ、己=自分自身
でもよいだろう。
この間には、もう一つある。
彼を知らずして己を知れば一勝一敗す。
孫子1 実例
孫子2 全文
孫子3 入門
中国も、四千年の歴史の中で虐殺を繰り返してきた。焚書坑儒くらいは知っているだろう。孫子は、その知恵の結集である。日本人と言う島国根性の持ち主は、畸形の精神の持ち主でもある。
ヨーロッパは何千年もかかってようやく統一された普遍性を得た。アラブにはアラブの普遍性がある。この二つの普遍性を統一するために、あと、どれほどの年月と、血が流されなければならないのだろうか。今は、その大きな歴史の中の小さな出来事にすぎないのだろう。
以上を読み返すと、なんだかイスラムやアラブに同情的に感じられる。書いている本人がそう感じる。しかし、これは、極めて客観的、論理的に書いたにすぎない。
ここに書いた歴史と思考方法を持つ民族と対峙するには、相応の準備と覚悟が必要だと言う事を知るべきである。
軍隊でさえ全滅した猛吹雪、吹き荒れる八甲田山に、これは良い冬山訓練ができると軽装で入って行って遭難したからといって、吹雪の収まらぬ山に救助隊を出さない政府を責めることはできまい。そんな事をしたら、無垢な人々を巻き込んださらに大きな遭難事故が起きる。退去勧告が出ている危険な地域に敢えて入って行った自分の責任を、他に転嫁すべきではない。典型的な甘えの姿勢である。本人たちの覚悟を冒涜するだけだ。
それにしても、あの一部の家族の責任転嫁の姿勢は、独善にみえるが、本人たちも、独善でイラクに行ったのだろうか?人を助ける気持ちも独善、人への責任転嫁も独善。どちらも同根に思われても仕方なかろう。
なお、感情でいえば、居候はアラブの普遍性は大嫌いである。
注1;「悪魔の詩」
1989年(平成元年):イランのホメイニ師が、「悪魔の詩」を著したイギリスの作家ラシュデイにイスラム教を冒涜したとして死刑を宣告。翻訳出版した日本の編集者もイスラム教徒に暗殺された。有史以来、イラン(ペルシャ)は暗殺で有名、assassin(アサシン=暗殺者)の語源は、hasheesh、hashish(ハッシシ:インド大麻)とされ、暗殺を命じられた刺客は大麻等で理性を麻痺させて、暗殺に臨んだと言われる。
--http://www.asahi-net.or.jp/~hu2a-kdm/whats/nan-no-hi-03-02.htmlより引用
注2;アラブとイスラム
この二つをあまり区別なく書いているが、学術書じゃないからね。ただ、注1でイランが出てきたので、書いておくと、イランはアラブではない。アーリア民族だ。つまりはヨーロッパ人と同じ人種である。厳しい身分差別のカーストを持つインドの支配民族もアーリアだ。インド人のうち原住民であった1億人ほどは不可触賎民(近頃では、不可触民というらしい。言葉の上だけでは賎を省いた。もっとも日本語での話だ。untouchableだからね)といい、最下級に「奴隷」がいるカーストという身分制度の中にさえ入れてもらえず、人間扱いされていない。どんな酷いことをされているか、甘な日本人には信じられないだろうが、「インド カースト ダリット」でグーグレば分かる。これらは、環境が異なると、同じアーリア民族でも如何に異なる考え方を持つかを示す良い例でもある。
橋田氏らの死に思う
フリージャーナリストの橋田、小川の伯父・甥両氏がイラクの地で凶弾に倒れられた。2004.5.28
このお二方の訃報と、御家族の対応を御聞きし、上記の3人とその家族、その直後にやはりイラクで人質になり、ジャーナリストの名に隠れて実に身勝手な論理を展開している二人の似非ジャーナリストとは、全く異なる本物のジャーナリストを感じたのは居候だけではあるまい。
こういう人々を見ると、上の三人と先の似非ジャーナリストなどは、日本で食い詰め、イラクで一旗揚げようとしていた偽善者としか思えない。
危険を承知で、しかも「自分に何か有っても騒ぐな」と言い置いた夫と、「ジャーナリストと結婚した以上、この日あることは覚悟していた」という御妻女には頭が下がる。
学者先生からは、危ないと言っているのに、またなぜ行くのかという見解が出ているが、彼も本当は、行くと言う物を止められる物じゃないと思っていることだろう。
心より御冥福をお祈りする。
・悟性が真理を探究するのは一種の狩猟であり、その場合、その追求そのものが快楽の大部をなす
--Locke
こういう好奇心は、止められる物ではないからだ。
その上、本物の男には下記のような気概がある;
・かくすれば かくなるものと知りながら 已(や)むに已まれぬ 大和魂(やまとだましい)
--吉田松陰/高輪泉岳寺(たかなわ・せんがくじ)(赤穂浪士の墓がある)の傍らにて
・男には負けると解っていても戦わねばならない時がある
--映画「FIST」
・我が胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば 煙はうすし 桜島山
--勤王の志士、平野次郎国臣
・行動の中以外に現実はない/ Il n'y a pas de re'alite' que dans l'action
--サルトル/Sartre
・知者は惑わず 仁者は憂えず 勇者は懼れず
--孔子/論語
御二人の心の裡を解きほぐすにはこれらの言葉で十分だろう。
人生の名言
蛇足であるが、これらの言葉に共通する論理は、それが身の不利と分かっていてもせざるを得ない「男」の論理である。その動機、衝動は「身勝手さ」ではない。
先の偽者のジャーナリストもどきのように、
危険な所に行くのはジャーナリズムの使命だとかなんとか言いながら、捕虜にされた途端、泣きを入れるのはジャーナリズムでもなんでもない。
単なる、卑しい功名欲しさの身勝手にすぎない。
その上、「皆さんなら、あの場合どうするか。仕方ないでしょう」とは呆れいるばかりである。心の卑小さは覆うべくもない。
大和魂ではなく、暴虎馮河にすぎない。どこに差があるか?動機にあり、覚悟にある。
生まれてこの方、責任という言葉の意味を考えたこともなさそうな彼らに与えるべき言葉はこれだろう。
・人間の状況を言い訳のきかぬ救い手のない自由な選択であると定義した以上、情熱を口実にして、そのかげに隠れるすべての人間、決定論的な考えを編み出すすべての人間は欺瞞的人間である
--サルトル
已むに已まれず、死を覚悟で行って何の意味があるか?死んだ当人には何の利益もない。しかし、それが世を動かし、盤石だと思われていた江戸幕府が倒れ日本の近代が始まったのだ。
81.東京メトロ 2004.4
目 次
「東京メトロって、なんだ?迷っちゃたよ」
関西から出張でやってきた男が言った。
そう、4月から「営団地下鉄」が民営化されて、「東京メトロ」になった。パリの地下鉄は、通称「メトロ」だ。それに倣った名称だ。
名前が変わっただけではない、看板などのロゴや、色使いまで変わったので、最初の日には居候も、一瞬、戸惑ってしまった。久し振りで東京に来る方は、お気を付けあれ。
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